STAGE 1
月は見ていなくても存在するか
アインシュタインの疑問
🎯 ミッション
アインシュタインが量子力学に突きつけた疑問「物理量は測る前から決まっているのか」を整理しよう。「実在性」と「局所性」という2つの仮定を自分の言葉で説明できれば合格。
未達成

ねこ博士
今回の旅のゴールを、最初に見せておこうね。物理学者アインシュタインは、晩年、散歩の途中で同僚にこう聞いたと伝えられている。「きみは本当に、月は見ていないときには存在しないと信じるのかね?」――もちろん月の話そのものではないよ。これは、量子力学という理論が描く世界像への、精いっぱいの皮肉なんだ。量子力学の教室で学んだことを思い出してごらん。電子や光子のふるまいは、測定するまで結果が決まっておらず、確率しか予言できないのだった。アインシュタインはこの「決まっていない」が、どうしても受け入れられなかった。このクエストでは、彼の疑問が実験で白黒つけられる問いに変わり、ついに自然自身が答えを出すまでの物語を、計算まで含めて自分の手でたどる。主役の式の名は――ベルの不等式だ。

うさ美
量子力学の教室の復習から整理させてください。電子を1個ずつ二重スリットに通すと、どこに当たるかは毎回バラバラで、予言できるのは「ここに当たる確率は何%」という分布だけ。同じ条件で実験しても結果が毎回違う、というのが量子力学の言い分でした。……でも先生、正直に言うと、私もアインシュタインに味方したくなります。だって、サイコロだって結果はバラバラですよね。でもあれは、投げる速さや角度や机の凸凹を全部知らないから予言できないだけで、全部知っていれば原理的には計算できるはずです。量子力学の「ランダム」も、それと同じで、私たちがまだ知らない何かを知らないだけ、という可能性はないんですか?

ねこ博士
その通り。いまきみが言ったことは、そのまま物理学史に残る仮説の名前がついている。「隠れた変数」仮説というんだ。変数というのは「値をもつ量」のこと。サイコロでいえば投げる速さや角度がそれだね。粒子にも、量子力学の教科書には載っていない隠れた情報がこっそり備わっていて、それが測定結果を最初から決めている。量子力学が確率しか言えないのは、理論として未完成だから――。アインシュタインは1935年、ポドルスキー、ローゼンという2人の物理学者と一緒に、まさにそういう主張の論文を書いた。頭文字をとってEPR論文と呼ばれる有名な論文だ。タイトルは挑発的だよ。「量子力学による物理的実在の記述は完全といえるか?」――彼らの答えは「ノー」だった。

うさ美
「実在」という言葉が出てきましたね。物理の議論で使うときの意味を確認させてください。握ったコインのたとえで考えると――手の中のコインは、開ける前から表か裏かすでに決まっています。私が知らないだけ。この「測る前から値が決まっている」ことを「実在する」と呼ぶ、という理解でいいですか?

ねこ博士
その理解で十分だよ。物理学ではそれを実在性と呼ぶ。正確に言い直すと、「測定結果は、測定する前から物理系のどこかに値として備わっている」という仮定のことだ。握ったコインの表裏、封筒の中の手紙の文面、そして「見ていないときの月」。日常の世界では、これはあまりに当たり前で、仮定だと意識すらしないね。ところが量子力学の標準的な解釈は、ミクロの世界についてこれを否定する。「電子がどこに当たるかは、当たるその瞬間まで、宇宙のどこにも書かれていない」と言うんだ。ここが対立の核心だよ。
実在性をめぐる2つの立場。立場Aは「値はあるが知らないだけ」、立場Bは「測るまで値そのものがない」。1回1回の測定データを見るかぎり、どちらもただのランダムな列にしか見えない。だからこの対立は長いあいだ「実験では区別できない」と思われていた

うさ美
考えているうちに、いやなことに気づいてしまいました。コインのたとえで言うと、「開ける前から表裏が決まっていた」としても、「開けた瞬間に表裏が生まれた」としても、開けた人の手元に残る記録はどちらも「表、裏、表……」という同じようなランダムな列ですよね。出てくるデータが同じなら、実験でどちらが正しいか決めようがないように思えます。「値は測る前からあったのか」なんて、測った後からでは確かめられない気がします。これでは物理ではなく、哲学の水かけ論です。

ねこ博士
その絶望こそ、当時の物理学者ほぼ全員の結論だったんだ。EPR論文のあと約30年間、この問題は「答えの出ない解釈論」として棚上げされた。「黙って計算せよ」という有名な標語があるくらいでね。……ただし、話を先に進める前に、アインシュタイン側の主張を支えるもう1本の柱を紹介しておかないといけない。局所性という仮定だ。意味はこうだよ。「どんな影響も、光より速くは伝わらない」。ここで少しだけ補足すると、アインシュタイン自身が作った相対性理論という理論から、光の速さ(秒速約30万km)は宇宙の制限速度で、物も信号も影響もこれを超えられない、ということが分かっている。だから、遠く離れた場所で起きた出来事が、その瞬間にこちらの実験結果を変える――そんなことはあってはならない。「ここで起きることは、ここの近くの事情だけで決まる」。これが局所性だ。

うさ美
その局所性について、意地悪な思考実験を思いついてしまいました。ものすごく長い棒を、地球から月まで渡したとします。地球側で棒を時計回りにねじったら、その瞬間、月側の端は反時計回りに回って見えるはずです。棒は1本につながっているんですから。これ、影響が一瞬で38万km先に届いたことになりませんか? 局所性、あっさり破れてしまう気がするんですが……。

ねこ博士
物理学者を何人も悩ませてきた、良い思考実験だよ。種明かしをすると、その話には「棒は完全に硬い(どこもかしこも一体で動く)」という仮定がこっそり入っている。そして、その仮定こそが成り立たないんだ。棒がどれほど硬く見えても、中身は原子の集まりで、ねじりの力は手元の原子が隣の原子を押し、それがまた隣を押すというバケツリレーで伝わる。この「ねじれの波」が伝わる速さは、物質を音が伝わる速さと同じ程度でね。鋼鉄でも秒速わずか5km――光速の6万分の1だ。地球で棒をねじった瞬間、月側の端は微動だにしない。ねじれの波が38万kmを旅して届くのは、なんと約21時間後。光なら1.3秒の距離だから、棒は光よりはるかに遅い連絡手段なんだよ。

うさ美
なるほど……。日常の棒の両端が同時に動いて見えるのは、数メートルなら波が1000分の1秒以下で届くから、瞬時に見えているだけなんですね。ということは、逆向きの結論も出せます。もし本当に「どこもかしこも瞬時に一体で動く棒」があったら、それだけで光速超えの通信機になってしまう。だから局所性が正しい宇宙には、完全に硬い物体はそもそも存在できない。「硬さ」とは、波が伝わる速さが速いという程度の意味でしかない……。

ねこ博士
その通り。「一見、瞬時に伝わって見えるが、よく調べると光速の壁は破れていない」――実はこの構図、この旅の最後にもう一度、もっと劇的な形で出会うことになる。楽しみにしておいてほしい。さて、話を戻そう。

うさ美
つまりアインシュタインの世界観は、2つの仮定のセットなんですね。①実在性――値は測る前から決まっている。②局所性――影響は光より速く伝わらない。……確かに、どちらも「見ていないときも月はそこにある」「月で起きたことが一瞬で地球の実験を変えたりしない」という、常識そのものです。この2つを両方信じる立場に、名前はあるんですか?

ねこ博士
あるよ。局所実在論という。局所性+実在性、そのままの名前だね。そして1964年、物語が動く。スイスのCERN(セルン、ヨーロッパの巨大な物理学研究所)で働いていた北アイルランド出身の物理学者、ジョン・ベルが、誰も予想しなかった発見をしたんだ。局所実在論が正しければ――隠れた変数の中身がどんな仕組みであっても――ある種の実験データが必ず満たさなければならない「数の不等式」が導ける。そして量子力学は、その不等式を破る値を予言する。つまり、装置を組んで数を数えれば、30年間「哲学」だった問いに、自然自身が答えてくれる。これがベルの不等式だよ。

うさ美
ちょっと待ってください。そこ、すごく引っかかります。「隠れた変数の中身がどんな仕組みでも」と言いましたよね。相手はまだ誰も見たことのない、正体不明の理論ですよ。中身を知らない理論すべてについて、まとめて成り立つ式を導く――そんなことが本当に可能なんですか? 無限にありえる説明を、一網打尽にするようなものですが……。

ねこ博士
そこがベルの天才なんだ。しかも種明かしをすると、使う数学は驚くほど素朴でね。ものの個数を数えて、「全体は部分より少なくない」と言う――やることは本質的にそれだけだよ。中学生の集合の考え方で、正体不明の理論を一網打尽にできる。このクエストの道のりを予告しておこう。STAGE2で実験の舞台となる「もつれた光子のペア」という不思議な現象を見る。STAGE3で局所実在論を「光子が説明書を持っている」というモデルに翻訳し、数え上げだけから不等式を導く。STAGE4で量子力学の予言を計算して両者を衝突させる。STAGE5で本物の実験の歴史を追い、STAGE6で「月」への答えを整理する。さあ、出発だ。
【このステージの成果】
実在性:測定結果は、測定する前から値として決まっている(握ったコインの表裏のように)
局所性:どんな影響も光より速くは伝わらない(遠くの出来事が一瞬でこちらを変えることはない)
局所実在論 = 実在性 + 局所性。 ベルの不等式 = 局所実在論なら必ず成り立つ数の不等式(これから導く)
確認クイズ
Q1. 物理の議論でいう「実在性」の意味として正しいのはどれ?
正解! 実在性とは「握ったコインの表裏のように、測る前から値が決まっている」という仮定。量子力学の標準的な解釈は、ミクロの世界についてこれを否定し、「測った瞬間に初めて値が生まれる」と主張する。
Q2. 「局所性」の意味として正しいのはどれ?
正解! 局所性は「ここで起きることは、ここの近くの事情だけで決まる」という仮定。相対性理論が示した宇宙の制限速度(光速)を、影響の伝わり方にも適用したものだ。実在性とセットにしたものが局所実在論と呼ばれる。
Q3. ジョン・ベルが1964年に成し遂げたことはどれ?
正解! ベルは、隠れた変数の中身がどんな仕組みでも、局所実在論であるかぎり必ず成り立つ不等式を導いた。量子力学はこの不等式を破る値を予言するので、あとは実験で数を数えれば決着がつく。「哲学」が「物理」になった瞬間だ。