STAGE 5
実験による決着
アスペからノーベル賞まで
🎯 ミッション
自然の法廷の記録を読もう。初期実験から抜け穴なし実験までの流れと、「局所性の抜け穴」「検出の抜け穴」がどう塞がれたかを説明できれば合格。
未達成

ねこ博士
1964年のベルの論文は、実はほとんど誰にも読まれなかった。ベルの本業はCERNでの加速器の理論計算で、この研究はいわば休暇中の趣味。しかも掲載されたのは創刊まもない無名の雑誌だった。「解釈問題に関わると経歴が終わる」と言われた時代でもあったしね。それを掘り起こしたのが、アメリカの若手物理学者ジョン・クラウザーだ。彼は1969年、同僚たち(ホーン、シモニー、ホルト)とともに、ベルの不等式を実際の装置で測りやすい形に改良した。頭文字をとってCHSH不等式と呼ばれる、私たちが導いた不等式のいとこ分だよ。こちらは、4通りの角度の組み合わせで測った相関を決まったやり方で足し引きした量を S と呼び、「局所実在論なら必ず S ≤ 2」という形をしている。私たちの不等式で「食い違い率は 1/2 を超えられないはず」だった線引きが、CHSH では「S は 2 を超えられないはず」に置き換わっただけで、意味していることは同じだ。本物の実験では、測りやすいこちらの形がよく使われる。

ねこ博士
面白いのはね、クラウザー本人はアインシュタイン側が勝つと予想していたことなんだ。量子力学の底が抜けるところを見てやろう、という動機で実験に挑んだ。1972年、彼はフリードマンとともに、カルシウム原子が光を放つときに生まれるもつれ光子ペアを使って、史上初のベル実験を行った。200時間を超える測定の結果は――不等式は破れていた。食い違い方は、量子力学の予言とぴったり一致。挑戦者の期待に反して、自然は量子力学に軍配を上げたんだ。

うさ美
これで決着……と言いたいところですが、待ってください。被告側の弁護人になったつもりで、判決に文句をつけてみます。STAGE3で、局所性の仮定はこう使いました。「アリスの角度選びは、ボブ側にも光源にも影響しない」。でも、もし偏光板の角度が実験の前からずっと固定されていたらどうでしょう。光源や装置のあいだを、光速以下のゆっくりした信号が行き来する時間はたっぷりあります。何らかの形で「今日の角度」が光源に伝わって、光源がそれに合わせた説明書を発行していたとしたら……不等式の破れを、局所的な仕組みのままでっち上げられませんか?

ねこ博士
いい弁護だね。それはプロの物理学者たちが局所性の抜け穴と呼んだ、正真正銘の弱点だよ。これを塞いだのがフランスのアラン・アスペだ。1982年、彼のチームは約13メートル離した2台の測定装置の設定を、光子が飛んでいる最中に、数十ナノ秒(1ナノ秒は10億分の1秒)という速さで切り替えた。光子が光源を出発した時点では、どの角度で質問されるかまだ決まっていない。決まるのは光子の飛行中で、その情報が光速で反対側に走っても、相手の測定には間に合わない。つまり「角度の前バレ」は物理的に不可能になった。結果は――それでも不等式は破れた。測定値はS=2.404±0.080。局所実在論の限界は2、量子力学の予言は2.448。誤差の範囲でぴたりだ。(同じ1982年に、設定を固定したまま精度を上げた実験も行われていて、そちらは S=2.697±0.015 という、さらにくっきりした破れを出している。)

うさ美
弁護人として、まだ食い下がります。実験で使う光子の検出器は、飛んできた光子を全部は捕まえられないはずです。たとえば3割しか検出できないなら、統計は「捕まった光子」だけで作られています。もし説明書に「検出されやすさ」まで書き込まれていて、都合のいいペアだけが検出されがちだったら? 捕まえ損ねた7割の中に、不等式を満たす証拠が隠れているかもしれません。

ねこ博士
それが第二の弱点、検出の抜け穴だ。きみは今日だけで、20世紀の懐疑派が数十年かけて絞り出した反論を2つとも再発見したことになるね。この抜け穴との戦いは長引いたが、2015年、ついに決着の年が来る。オランダ・デルフト工科大学のチームは、光子ではなくダイヤモンド中の電子のもつれを使った。電子は逃げないから、測定はほぼ100%成功する。しかも2つの電子は1.3km離れたキャンパスの両端に置かれ、局所性の抜け穴も同時に塞いだ。同じ年、アメリカNISTとウィーンのチームも、超高効率の光子検出器で同様の「抜け穴なし実験」を達成した。3つの独立な実験の結論はすべて同じ。不等式は、破れる。

うさ美
弁護人として、最後の抵抗をさせてください。局所性の抜け穴を塞いだ仕組みは「飛行中に設定をランダムに切り替える」でした。でも、その乱数発生器も物理の装置です。もし乱数発生器と光源が、過去のどこかで共通の原因を持っていて、「これから選ばれる角度」と「説明書の中身」がこっそり相関していたら? 私たちがサイコロと呼んでいるものが、実は光源と示し合わせているのかもしれません。そうなら、STAGE3の「光源は2人の質問を知らない」という前提が崩れて、説明書モデルのままで破れを偽装できます。

ねこ博士
そのとおりだよ。それが第三の抜け穴、自由選択の抜け穴だよ。実験家たちの返答が面白くてね。2017年には、角度の選択を数百光年離れた恒星の光の色に委ねる実験が行われた。共謀を疑うなら、数百年前に星を出発した光まで仕込みに参加していたことになる。より遠いクエーサーを使った版では、仕込みは数十億年前まで遡る。2018年には、世界中の約10万人が気まぐれにボタンを連打して設定を決める実験まで行われた。結果はすべて同じ――不等式は破れ続けた。ただし正直に言うと、この抜け穴だけは論理的には完全に塞げない。「宇宙の初期条件の時点で、星の光も光子源もきみの指の動きも、すべて調整済みだった」と主張する超決定論は、原理的に反証できないんだ。その代わり代償が重い。その調整がなぜ量子力学の統計をぴったり再現するのかの説明がないし、何より「実験のサンプルは信用できる」という科学の方法論そのものが崩れてしまう。だから大多数の物理学者はこの道を選ばない。この最後の逃げ道の話は、最終ステージでもう一度出てくるよ。……ともかく、塞げる抜け穴はすべて塞がれた。この一連の検証に対して、2022年、ノーベル物理学賞が贈られた。受賞者はクラウザー、アスペ、ツァイリンガーの3人だ。
ベルの不等式をめぐる年表。実験技術が一歩進むたびに抜け穴が1つ塞がれ、そのたびに答えは同じだった――不等式は破れる。量子力学の予言との一致は、現代までのあらゆる追試で確認されている

うさ美
クラウザーさんとアスペさんの功績は、いまのお話で分かりました。でも3人目のツァイリンガーという人は、まだ登場していませんよね。この人は、どの抜け穴を塞いだんですか?

ねこ博士
オーストリアのアントン・ツァイリンガーは、検証と並ぶもう1つの流れ――もつれを道具として使う研究を切り開いた人だ。3個以上の光子のもつれを作り、量子テレポーテーション(もつれを使って量子状態を別の場所の粒子に移す技術)を実証し、カナリア諸島では144km離れた島の間でもつれを飛ばした。ウィーンでの2015年の抜け穴なし実験も彼のチームだよ。ベルの不等式は、彼らの手で「量子力学の検証手段」から「新技術の品質保証書」へと役割を広げていった――その話は最終ステージでしよう。ともかく、判決は確定した。局所実在論は、自然の姿ではなかった。では、実在性と局所性、いったいどちらを手放せばいいのか? 「月」はどうなるのか? 最後のステージで旅を締めくくろう。
【このステージの成果】
1972 クラウザーら:初のベル実験で破れを観測。1982 アスペ:飛行中の高速スイッチで「局所性の抜け穴」を封鎖
2015 デルフト・NIST・ウィーン:検出の抜け穴も同時に塞いだ「抜け穴なし実験」でも破れを確認
第三の「自由選択の抜け穴」も、恒星・クエーサーの光や約10万人の選択で角度を決める実験により追い詰められた(超決定論だけは論理的に残るが、科学の方法論を捨てる代償を伴う)
2022 ノーベル物理学賞(クラウザー、アスペ、ツァイリンガー)。判決:局所実在論は自然の姿ではない
確認クイズ
Q1. アスペの実験(1982年)の決定的な工夫はどれ?
正解! 角度が事前に固定されていると、光速以下の信号で「今日の角度」が光源に伝わる余地が残る(局所性の抜け穴)。飛行中に切り替えれば、どんな光速以下の連絡も間に合わない。それでも不等式は破れ、S=2.404±0.080と量子力学の予言(2.448)に一致した。
Q2. 「検出の抜け穴」とはどんな心配?
正解! 捕まえ損ねた光子の中に不等式を満たす証拠が隠れているかもしれない、という反論だ。2015年、ほぼ100%測定できるダイヤモンド中の電子(デルフト)や超高効率検出器(NIST・ウィーン)によって、この抜け穴は局所性の抜け穴と同時に塞がれた。
Q3. 50年にわたる実験の最終的な結論はどれ?
正解! 1972年の初実験から2015年の抜け穴なし実験まで、答えはずっと同じだった。実験が精密になるほど、局所実在論の生き残る余地は狭まっていった。この一連の検証に対して2022年のノーベル物理学賞が贈られた。