💠 量子コンピュータはなぜ速いのか
STAGE 8 ― 最大の敵と誤り訂正 ―
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🗺️ マップ
STAGE 8

最大の敵と誤り訂正

デコヒーレンスと現在地
🎯 ミッション
量子コンピュータの最大の敵がデコヒーレンスであることを、この旅で組み立てた干渉の話からあらためて確かめよう。そして「コピーできない・測定すると壊れる」という二重の縛りの中で誤りを直す発明――シンドローム測定――の仕組みを説明できれば、旅は完結だ。
未達成
ねこ博士
最後のステージだ。ここまでで、量子コンピュータが速くなる仕組みは全部見た。ドイチュ、グローバー、ショア――形は違っても、中心にあった道具はいつも同じだったね。
では、その道具の弱点の話をしよう。この機械にとっていちばん恐ろしいものが何かは、前の旅の最後にきみ自身が言い当てていたね。
うさ美
覚えています。デコヒーレンスの旅の最後で、敵はデコヒーレンスだと答えました。道具は干渉――打ち消し合いと強め合いで、干渉が使えるのは道筋の区別がつかないあいだだけ。空気の分子1個でも、光子1個でも、量子ビットにぶつかって「どちらの状態だったか」の手がかりを持ち去ってしまえば、矢印を足す資格が失われて、打ち消し合いはもう起きない。
あのときは、量子コンピュータの中身を知らないまま聞いた話でした。いまなら、そこで失われるものの正体が言えます。打ち消し合いが起きなければ、ドイチュもグローバーもショアも、いらない候補が消えないまま残る――つまり、ただの当てずっぽうに戻ってしまうんですね。
ねこ博士
その通りだ。しかも事態はもっと厳しい。ふつうのコンピュータの部品は、雑音に対して驚くほど頑丈だ。電圧が少しふらついても、「0.4ボルト以下なら0、2.4ボルト以上なら1」と丸めてしまえるからね。誤りは自然に消される。
量子ビットではそれができない。矢印の長さも向きも連続的な値で、しかも向きの情報こそが計算の中身だ。丸める先がない。
うさ美
実際、どのくらい弱いんですか。
ねこ博士
数字であらためて見よう。前の旅でも触れた通り、いま主流の超伝導方式の量子ビットは、絶対零度からわずか100分の1度ほどの極低温、しかも高真空の中に置かれている。それだけ守っても、重ね合わせが保てる時間――コヒーレンス時間――は数十から数百マイクロ秒だ。1マイクロ秒は100万分の1秒だから、100マイクロ秒でも1万分の1秒だね。この一瞬のあいだに、計算を最後まで終えなければならない。
ゲート1回の誤り率も見よう。よく整備された装置で、量子ビット1個に当てるゲートで0.1%以下、2個をもつれさせるゲートで0.1〜1%程度
うさ美
1回あたり0.1%……一見よさそうですが、計算はゲートを何回も重ねますよね。1000回のゲートを通してどこも間違えない確率は、0.999を1000回掛けた数です。誤る機会が1000回あって1回あたり0.1%なら、平均して1回は誤る勘定ですから、最後まで無事に終わるほうが珍しいということになりませんか。
ショアのアルゴリズムで617桁の数を扱ったら、ゲートは何回くらい必要なんですか。
ねこ博士
その掛け算は約0.37になる。3回に2回は失敗だから、きみの見立て通りだよ。
ゲートの回数のほうは、10億回を超えると見積もられている。10兆回に達するという試算もある。
ということは、まともに答えを出すには、ゲート1回あたりの誤り率を10億分の1よりさらに小さくしなければならない。いまの1000分の1から、その水準まで――装置を丁寧に作り込むだけでは、どうやっても届かない距離だ。
ゲートを重ねるほど、必要な精度は跳ね上がる
ゲート1回あたりの誤り率
誤り率 0.1% 1000回のゲート後に無事な確率 37% 100万回後 ほぼ0% 10億回後 ほぼ0%
横軸はゲート1回あたりの誤り率(右へ行くほど高精度)、縦軸は計算全体が最後まで無事に終わる確率。線はゲートの回数ごとに引いてある。回数が10倍になるたび、要求される誤り率も10倍厳しくなる。いまの実機は「いまの実機」と印をつけた帯のあたり(0.1〜1%)。ショアのアルゴリズムに必要な10億回の線は、いちばん右の 10⁻¹⁰ まで来てようやく9割まで持ち上がる。いまの0.1%から、さらに1000万分の1まで誤りを減らすということで、装置を丁寧に作り込むだけでは届かない。だから、別の発想が要る。
うさ美
前の旅の最後に、デコヒーレンスに対する最後の切り札は量子誤り訂正だと聞きました。ただ、あのときは「1個ぶんの情報を、たくさんの量子ビットにまたがるもつれの模様として薄く広げて隠してしまう」という一言で終わって、どうすればそんなことができるのかは分からずじまいでした。
ふつうのコンピュータでも、通信や記憶装置では誤りが起きて、それは誤り訂正で直していますよね。いちばん素朴なやり方は、同じデータを3つコピーしておいて、食い違ったら多数決を取る方法です。量子ビットにも、同じ手は使えないんですか。
ねこ博士
まさにそれをやりたい。ところが、量子ビットに対しては3つの壁が立ちはだかる。ひとつずつ見ていこう。
壁①:コピーが作れない。未知の量子状態をそっくり複製する操作は、原理的に存在しないことが証明されている。複製不可能定理という。ゲートは長さの合計を保つ回転でなければならなかったが、「どんな状態でも複製する」操作はその条件を満たせないんだ。
うさ美
コピーが作れないなら、多数決のための「同じもの3つ」が用意できない……。
それに、仮に3つあったとしても、壁②が思い浮かびます。多数決をするには3つの中身を見比べる必要がありますよね。でも量子ビットは、測定した瞬間に0か1に決まって、重ね合わせが壊れてしまう。誤りを探すために覗いた時点で、守りたかったものが消える
ねこ博士
壁②を自分で見つけたね。そして壁③もある。ふつうのビットの誤りは「0が1に化けた」という1種類だけだ。ところが量子ビットは、ほんの少しだけ回ってしまうという誤り方をする。矢印が3度だけずれる、というような。誤りの種類が連続無限にあるように見える。
この3つの壁のせいで、1990年代の初めには「量子コンピュータは原理的に無理だ」と考える研究者も多かった。ところが1995年、ショア自身が――そしてほぼ同時にアンドリュー・スティーンが――突破口を開いた。
うさ美
3つとも本質的な壁に見えます。どうやって越えたんですか。
ねこ博士
まず壁①。前の旅では一言で済ませた「もつれの模様として薄く広げて隠す」の中身を、ここで具体的に見せよう。コピーは作れないが、広げて書くことはできるんだ。たとえば、守りたい状態が「|0⟩ に矢印 a、|1⟩ に矢印 b」だとしよう。これを量子ビット3個に、|000⟩ に a、|111⟩ に b という形で書く。
これはコピーではない。3個をばらばらに見ても、どこにも a や b は入っていないからね。情報は3個のあいだの関係として保存されている。こうして作った1個ぶんの単位を論理量子ビットと呼ぶ。
うさ美
なるほど……。でも壁②はまだ残っています。3個のうち1個が反転して |010⟩ に a、|101⟩ に b のようになったとして、それをどうやって見つけるんですか。見た瞬間に壊れるのに。
ねこ博士
ここが、この旅でいちばん美しい場面かもしれない。答えの形は、きみがドイチュのところで自分で言い当てたものとまったく同じだよ。――思い出してごらん。あのとき、読み出し口は1つしかないのに、なぜ答えが得られたのかな。
うさ美
個々の値ではなく、全体についての性質だけを読んだからです。f(0) でも f(1) でもなく「2つが同じか違うか」だけを――
……そうか! 同じことをすればいいんですね。3個の量子ビットそれぞれの値を読むのではなく、「1番目と2番目は同じか、違うか」だけを読む
元の状態は |000⟩ と |111⟩ の重ね合わせですから、どちらの行でも1番目と2番目は同じです。だから「同じ」という答えは、a と b について何も語らない。覗いても、守りたい情報は漏れない!
ねこ博士
その通り、たどり着いたね。それがシンドローム測定だ。「症状だけを診る」という意味の名前だよ。
3個の量子ビットについて、「1番目と2番目は同じか」「2番目と3番目は同じか」の2つを測る。答えの組み合わせで、どこが反転したかが一意に決まる。
・両方「同じ」→ どこも壊れていない
・1組目だけ「違う」→ 1番目が反転した
・両方「違う」→ 2番目が反転した
・2組目だけ「違う」→ 3番目が反転した
場所が分かったら、その量子ビットに X ゲートを当てて戻すだけ。a と b の値は最後まで一度も覗かれない
うさ美
壁②が消えました。残るは壁③――「ほんの少しだけ回ってしまう」連続的な誤りです。3度だけずれた誤りは、「反転した/していない」のどちらでもありません。これはどうするんですか。
ねこ博士
ここでも測定が味方をする。「少しだけ反転しかけている状態」は、「反転していない状態」と「反転した状態」の重ね合わせとして書ける。3度のずれなら、「反転していない」の矢印がとても長く、「反転した」の矢印がとても短い重ね合わせだ。
そこにシンドローム測定をすると、答えは必ず「同じ」か「違う」のどちらか1つに決まる。ほとんどの場合は「同じ」(誤りなし)が出て、状態はきれいな元の形に戻る。ごくまれに「違う」が出るが、そのときは完全に反転した状態になっているので、X で戻せばいい。
つまり測定が、連続的な誤りを「あり」か「なし」かに丸めてくれる。ふつうのコンピュータが電圧を丸めていたのと同じことが、ここで起きるわけだね。
うさ美
測定が敵ではなく味方になるんですね。3つの壁がぜんぶ越えられた。
ただ、いまの3個の符号は「反転」の誤りしか直せませんよね。矢印の向きが正反対になる誤り――Zゲートがかかってしまったような誤り――は、|000⟩ と |111⟩ のどちらも1番目と2番目は同じままなので、シンドロームに引っかかりません。
ねこ博士
いい質問だね。その通りで、実用の符号は両方の誤りに備える。いま本命とされているのは表面符号という方式で、物理量子ビットを碁盤の目のように2次元に並べ、隣り合う仲間どうしのシンドロームを絶えず測り続ける。誤りは格子の上の「印」として現れ、その並び方から場所を推定して直す。
代償は数だ。誤りを十分に抑えた論理量子ビット1個を作るのに、物理量子ビットが1000個から数千個要る。前回話した「2048ビットRSAに物理量子ビット百万個規模」という見積もりは、ここから来ているんだ。
うさ美
1000個で1個……。でも、ちょっと待ってください。誤りを直すための操作そのものにも、量子ビットとゲートを使いますよね。直そうとして、直す作業の中で新しい誤りが増えるのでは。物理量子ビットを増やすほど誤りの起きる場所も増えるわけですし、これでは追いかけっこで、いつまでも終わらない気がします。
ねこ博士
それはこの分野で最も本質的な問いで、答えははっきりしている。閾値定理という定理だ。
訂正作業で増える誤りも全部数えたうえで、それでも――部品1個あたりの誤り率が、ある決まった値(しきい値)より小さくさえあれば、規模を大きくするほど、論理量子ビットの誤り率はいくらでも小さくできる。追いかけっこには勝てる、ということが証明されている。
逆に、しきい値より悪い部品をいくら並べても、誤りは減らない。この一線をまたげるかどうかが、実用化の分かれ目だ。表面符号のしきい値はおよそ1%と見積もられている。
うさ美
1%……さっき聞いた実機のゲート誤り率は0.1〜1%程度でした。ちょうど、その一線のあたりにいるということですか。
ねこ博士
まさにいま、その一線をまたごうとしている段階だ。前の旅の最後に「訂正に使う量子ビットの数を増やすほど、本当に誤りが減ることが確かめられた」と話したね。あれが、この一線の内側に入りかけているという報告だったんだ。2024年には、符号の規模を大きくするほど論理量子ビットの誤り率が実際に下がっていくことが、超伝導方式の実機で示された。しきい値の内側に入った証拠として、大きな節目とされている。
とはいえ、実証されたのは論理量子ビット1個ぶんを保つところまでで、それを何千個も並べて長い計算を回すのは、まだこれからだ。いまの段階を、誤り訂正のない中規模な機械という意味でNISQ(ニスク)時代と呼ぶことがある。
シンドローム測定:中身を見ずに、誤りの場所だけを知る
守りたい1個ぶんの情報は、|000⟩ に矢印 a、|111⟩ に矢印 b という3個の量子ビットにまたがる模様として保存されている(コピーではない――3個をばらばらに見ても a も b もどこにもない)。雑音のボタンを押すと、どれか1個が反転して模様が崩れる。
「シンドロームを測って直す」を押すと、各量子ビットの値ではなく、「1番目と2番目は同じか」「2番目と3番目は同じか」の2つだけを測る。元の模様ではどちらの行でも隣どうしは同じなので、この答えは a と b について何も語らない――覗いても守りたい情報は漏れない。それでも答えの組み合わせから、反転した場所が一意に決まる。
うさ美
全体の見取り図がほしいです。いまの実機は、何ができて、何ができないんですか。
ねこ博士
正直なところを並べよう。
できていること:物理量子ビットを数百から千個ほど載せた機械が実際に動いている。ゲートの誤り率は誤り訂正のしきい値の周辺まで来た。規模を大きくすると論理誤り率が下がることも実証された。特定の人工的な課題で、ふつうのコンピュータより速く計算できたという報告もある。
できていないこと:実用的な問題で、ふつうのコンピュータに確実に勝つこと。ショアのアルゴリズムで意味のある大きさの数を分解すること。誤り訂正済みの論理量子ビットをたくさん並べて長時間動かすこと。
うさ美
率直な整理をありがとうございます。……最後にひとつだけ。この機械は、いったい何の役に立つんでしょうか。暗号を破るためだけに、これだけの苦労をするわけではないですよね。
ねこ博士
いい問いで旅を締めくくれるね。いちばん期待されているのは、暗号解読ではなく量子の世界そのものを計算することだ。
分子の中で電子がどう振る舞うかは、まさにこの旅で扱ってきた矢印の表そのもので決まる。電子が数十個あれば、表は2ⁿの勢いで膨れ上がり、ふつうのコンピュータは正直な計算をあきらめて近似に頼るしかない。量子の振る舞いを量子で真似るのなら、この爆発は起こらない。1982年にリチャード・ファインマンが量子コンピュータを構想したとき、彼が念頭に置いていたのはまさにこれだった。
新しい薬の設計、より良い電池や触媒の材料探し、窒素を肥料に変える反応の解明――そういうところに効くと期待されている。
うさ美
旅の全体をまとめさせてください。
量子ビットは、答え候補それぞれに矢印を割り当てた一覧表。計算はその表を混ぜ、回すこと。読み出せるのは1つだけ。だから速さは「同時に計算するから」ではなく、いらない候補の矢印を打ち消し、欲しい候補を強め合わせる干渉の設計から生まれる。その設計が強く効くのは、問題に構造があるとき――ショアの周期のように。構造がなければグローバーの2次加速まで。
そして、その干渉こそが最大の弱点でもある。手がかりが1つ漏れれば計算は死ぬ。だから極低温と真空で守り、それでも足りない分を、中身を覗かずに症状だけを診るという発明で補っている。
ねこ博士
よくまとまったね。これで、きみは「量子コンピュータはすごい」という言葉を、中身から語れるようになった。すごい部分と、すごくない部分を、区別して語れる――それがいちばん大事なことだよ。
――そしてもうひとつ。二重スリットの縞から始まって、複素数の教室で習った矢印、もつれ、デコヒーレンス、そして今日の計算機まで、きみが使った道具はずっと同じだった。区別がつかない道筋は、矢印を足してから2乗する。この1行が、世界のこれだけ広い範囲を説明してしまう。物理学が美しいと言われるのは、こういうところなんだ。
おつかれさま。旅は終わりだ。
【最大の敵と誤り訂正 ― そして現在地】 ・計算のすべてが干渉でできている以上、手がかりの漏れ=デコヒーレンスは致命傷。しかも量子ビットは電圧のように「丸める」ことができない ・数字:超伝導方式でコヒーレンス時間は数十〜数百マイクロ秒、ゲート誤り率は0.1〜1%程度
ショアで大きな数を扱うにはゲート10億回超が必要で、そのままでは到底届かない
・3つの壁:①コピーが作れない(複製不可能定理)②測定すると壊れる ③誤りが連続的 ・突破口:①1個ぶんを複数の量子ビットにまたがる模様として書く(|000⟩ に a、|111⟩ に b = 論理量子ビット)
シンドローム測定=値ではなく「隣どうしが同じか違うか」だけを測る。守りたい情報は漏れず、誤りの場所だけ分かる
③測定が連続的な誤りを「あり/なし」に丸めてくれる
表面符号:物理量子ビットを2次元に並べて絶えず症状を診る。論理1個に物理1000〜数千個 閾値定理:訂正作業で増える誤りも数えたうえで、部品の誤り率がしきい値(表面符号で約1%)より小さければ、規模を大きくするほど論理誤り率をいくらでも下げられる ・現在地:物理量子ビット数百〜千個、しきい値の周辺。2024年に「規模を上げると論理誤り率が下がる」ことが実機で実証された。実用計算はこれから(NISQ時代 ・最有力の応用は暗号解読ではなく分子・材料のシミュレーション――量子の振る舞いを量子で真似る(ファインマンの構想、1982年)

確認クイズ

Q1. 量子コンピュータにとってデコヒーレンスが致命的なのはなぜ?

Q2. シンドローム測定が「守りたい情報を壊さずに誤りを見つけられる」のはなぜ?

Q3. 閾値定理が言っていることは?

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